2013年10月29日火曜日

モンテ・クリスト伯 テーマは「待て、しかし希望せよ」だった

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足掛け4ヶ月に及ぶ「モンテクリスト伯」だが、最後の最後でこの本のテーマがわかる。
復讐を一通りした後、マクシミリアンに嫌がらせのようにヴァランティーヌが実は生きていることを隠し通して、自殺までさせるという経緯がわからなければ、どー考えても蛇足的エピソードが最後にある。
もっとはじめにマクシミリアンに打ち明けておいた方が復讐も完璧に遂行できたにちがいないのに、「劇的な生き方を好むおっさん」という印象が拭えなかった。
最後の最後にマクシミリアンの手紙の最初のセンテンスが、「待て、しかし希望せよ」。
そして、下記のようにも付け加える


    この世には、幸福もあり不幸もあり、ただあるものは、一つの状態と他の状態との比較にすぎないということなのです。
    きわめて大きな不幸を経験したもののみ、きわめて大きな幸福を感じることができるのです。


このモンテクリスト伯の人生哲学を教えるためにわざわざ自殺させるほどの失望を経験させるという大きな演出を最後の最後にもってくるのであった。
単なる復讐で終わっていたらクラシックに入ることはなかっただろうけれど、この最後の一章によりクラシックに入ったのだろう。
「希望」とはえげつない薬であり毒薬である。
死生観についの表現もおもしろい


    今から一千年の後、人間があらゆる破壊力を征服して、それを人類の福祉のために利用するになったあかつき、
    すなわち人間が、つい今しがたあなたがおっしゃったように死のあらゆる秘密を知り尽くすことになったあかつき、
    死はおそらく、恋人の腕に抱かれて味わう眠りのようにやさしく、また、たまらないものになるでしょう。


死はわからないから恐ろしいという反語表現に他ならない。
こういう反語表現は文章の随所に見られる。

まだ、モンテクリスト伯が生きた時代から1千年経っていないけれど、モンテクリスト伯の時代より人間を恐怖に貶める事象はかなり減った。
「待つ」ことがそれほど苦ではなくなり、完璧ではないけれどある程度の福祉が整備され、何も考えずに待っていても希望の蜃気楼を見ることができるようになった。
その蜃気楼が本物なのか、誰かに見せられている希望なのかわからない時代に突入している。
ゆえに、今の時代にこの言葉を適用するなら、

希望を強烈に照らせ、そして希望に向かって歩き続けよ

になるだろう。待っていても希望はやってこない。

そういう方向で

ちなみに写真は、宅急便の荷物を撮りにいくついでに撮った服部緑地の風景。
いつもと違う道なので、いつもと違う新鮮な風景が撮れる。

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